極真空手の歴史を語る上で避けて通れないのが、1994年4月26日の創始者・大山倍達総裁の急逝(享年70)に端を発する大分裂劇です。大山倍達は戦後、猛牛を素手で倒し、ビール瓶の首を手刀で切り落とすなどの超人的な演武や、世界各国での他流試合を通じて名を馳せました。梶原一騎原作の劇画『空手バカ一代』の大ヒットも追い風となり、極真会館は国内外で絶大な影響力を持つ巨大組織へと急成長を遂げました。
しかし、絶対的なカリスマであった大山総裁が後継体制を盤石に整える前に肺癌で亡くなったことで、組織の歯車は一気に狂い始めます。逝去直後に発表された「遺言書」には、第5回全世界空手道選手権大会の覇者であり、当時31歳の若手幹部だった松井章圭(まつい しょうけい)現館長を後継者(館長)に指名する旨が記されていました。
この指名に対し、長年組織を支えてきた古参の支部長たちや大山総裁の遺族(大山家)が猛反発します。「遺言書は偽造された疑いがある」「若すぎる松井氏の単独継承は認められない」として内部対立が勃発。やがて舞台は裁判所へと移り、ドロ沼の法廷闘争へと発展しました。
後に東京家庭裁判所および最高裁判所において「遺言書は無効」とする判決が確定します。しかし、すでに組織の実権を握り国際空手道連盟(IKO)の法人化を進めていた松井派と、大山総裁の遺志継承を掲げて反旗を翻した支部長派(のちの新極真会など)との溝は修復不可能なレベルに達していました。さらに、商標権(「極真会館」「観空マーク」など)の所有権を巡る訴訟も乱立し、結果として極真空手は複数の独立した組織へと完全に枝分かれしていくことになったのです。