学校という現場で絶大な支持を集めていた義家氏が、なぜ過酷な政界へ飛び込むことになったのか。その政治家転身理由には、彼自身の強い義憤と構造的な壁がありました。
北星学園余市高校で生徒と向き合う中、義家氏は「どれほど一校の現場で生徒を救おうとしても、国の教育制度や法律そのものが硬直化していては、こぼれ落ちる何万人もの子どもたちを救い切れない」という無力感を痛感するようになります。不登校や非行に対する画一的な処分、現場の裁量を認めない文部行政の硬直性に憤りを感じていた折、彼に目を留めたのが当時の安倍晋三官房長官(後の首相)でした。
2005年、横浜市教育委員会教育委員に就任した義家氏は、翌2006年の第1次安倍内閣において「教育再生会議」の担当室室長に大抜擢されます。そして2007年の第21回参議院議員通常選挙に自民党公認で出馬し、全国比例区で約23万票を獲得して初当選を果たしました。
しかし、国政の舞台は現場の教室とは全く異なるルールで動いていました。義家氏は「教育基本法の改正」や「道徳の教科化」「教職免許更新制の導入」などを精力的に推進し、第3次安倍第1次改造内閣では文部科学副大臣に就任。強硬な保守的主張を展開する姿は、かつての型破りな「ヤンキー先生」を支持していたファン層に大きな戸惑いを与えました。メディアや野党からは「かつての反骨精神はどこへ行ったのか」「すっかり権力の側に組み込まれた」と激しいバッシングを浴びるなど、理想と現実の狭間で激しい政治的攻防を強いられることになったのです。