城郭ファンや歴史愛好家の間では、長年にわたり「大阪城は秀吉の城か、それとも徳川の城か」という議論が交わされてきました。現場を取材すると、知れば知るほど見え方が一変する来訪者のリアルな驚きの声が聞こえてきます。
「大手門をくぐって桝形に入った瞬間、畳数十枚分もある巨大な巨石(蛸石・約108トン)に圧倒されたが、これが秀吉ではなく徳川期に岡山藩・池田忠雄によって運ばれたものだと知って鳥肌が立った」(40代歴史ファン男性)
「天守閣の中に入ると近代的で驚くが、昭和初期に市民のお金だけで建てられた歴史資料館だと理解すると、大阪の人々の地元愛の深さに別の感動が湧く」(30代旅行者女性)
昭和59年(1984年)、天守閣の南東側地下から豊臣時代の本丸石垣が偶然発見され、学会に激震が走りました。その後の「豊臣石垣公開プロジェクト」などを通じ、徳川が埋め立てた地下遺構が学術的に可視化されるようになったことで、ネット上の知恵袋やSNSでも「秀吉の城の上に徳川の城が重なり、その上に昭和の建物が載っているミルフィーユ構造」という理解が急速に広まりつつあります。