平野長泰は永禄2年(1559年)、織田信長・豊臣秀吉に仕えた平野長治の子として尾張国に生を受けました。幼少期から秀吉の近習として仕え、側近として軍事・警護の実務を叩き込まれます。
彼の名を天下に知らしめたのが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いです。柴田勝家軍との決戦において目覚ましい一番槍の武功を挙げ、秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の1人として称賛され、河内国などに3,000石の知行を与えられました。その後、大和国十市郡田原本(現在の奈良県田原本町)周辺に加増され、知行5,000石を領することになります。
秀吉の親衛隊である黄母衣衆(きほろしゅう)にも抜擢され、小田原征伐や文禄・慶長の役でも秀吉本陣の近衛部隊として重用されました。しかし、この「主君の足元を固める重臣」というポジションこそが、のちの領地拡大において皮肉な足かせとなっていきます。