日本人の多くが「織田信長の俳句」として記憶しているこの五・七・五ですが、結論から言えば織田信長本人が詠んだ句ではありません。そもそも信長が生きた戦国時代(16世紀後半)には、現代でいう「俳句」という文芸ジャンルそのものが成立しておらず、当時の武士階層が嗜んでいたのは和歌や連歌でした。
この句の直接的なルーツとして知られているのが、江戸時代後期の肥前国平戸藩主・松浦静山(まつら せいざん)が文政4年(1821年)から約20年間にわたって執筆した膨大な随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』です。同書の巻之十五には、世間に流通していた狂歌として以下の三句が紹介されています。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 徳川神君」
松浦静山自身も「ある人の書簡に記されていた」「世間で言い習わされている」と書き残しており、静山自身が創作したわけではなく、18世紀後半から19世紀初頭の江戸市中で町人や知識人の間に広まっていた名もなき狂歌作者たちの風刺句が収集されたものと判断できます。強烈なカリスマ性で天下布武を推し進めた信長、百姓の出自から知略と人たらしで頂点へ登り詰めた秀吉、そして最後にすべてを手に入れた家康の生き様を、ホトトギスへの対応という極めて身近なワンシチュエーションで見事に切り取った秀逸なパロディでした。