メーラトでイギリス人将校を殺害して蜂起したシパーヒー部隊は、わずか1日で古都デリーに進軍しました。彼らは赤城(レッド・フォート)に突入し、名目上の君主となっていたムガル帝国第17代皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立。「全インドの皇帝」として戴くことで、一地方の軍事反抗から正統性を持つ国家的反英闘争へと昇華させました。
この反乱の炎は瞬く間に北インドおよびガンジス川流域一帯に拡大します。その中で特筆すべき活躍を見せたのが、中部インド・ジャーンシー藩王国の若き王妃ラクシュミー・バーイーです。「インドのジャンヌ・ダルク」と称される彼女は、イギリスによって領地を不当に没収されたことに抗議し、自ら甲冑を身にまとって白馬に跨がり、愛児を背中に背負いながら前線で指揮を執りました。彼女が率いた守備隊の頑強な抵抗は、敵であるイギリス軍の司令官ヒュー・ローズ将軍をして「反乱軍の中で最も勇敢で、最も優れた指導者であった」と戦記に記させたほどです。
また、アワド地方の指導者アフマド・ウッラー・シャーや、ゲリラ戦を展開した猛将タッティヤ・トーペーらの奮戦もあり、一時はイギリスの支配網が完全に寸断されました。しかし、反乱軍には全土を一元的に統率する統一司令部が存在せず、近代的な補給路と電信網、そしてグルカ兵やシーク教徒部隊を味方につけたイギリス軍の反撃により、1858年中盤までに主要拠点は各個撃破されていきました。