父親が偉大なプロ野球選手であった環境は、幼少期の山田裕貴にとって憧れであると同時に、あまりにも重い十字架でもありました。父の背中を追い、小学校から野球を始めた山田裕貴は、中学時代には強豪シニアリーグである「名古屋北シニア」に所属。しかし、そこで彼は最初の大きな挫折を味わうことになります。
「どんなに練習しても父親のレベルには到底届かない」「周囲から『プロの息子なのに』という目で見られる」。当時の特番インタビューや過去の手記において、彼は当時の苦悩を吐露しています。父親と自分を無意識に比較し、野球に対する情熱の限界を感じた山田裕貴は、父の母校でもある名門・東邦高校へ進学するものの、高校球児としてのプロ入りへの道を断念する決断を下しました。
野球を辞めると父に告げた夜、山田和利氏は息子を怒鳴り散らすことは一切せず、ただ静かにこう告げたといいます。
「お前が自分で決めたことなら、次に見つけた道は途中で投げ出すな。最後までやりきれ」
この言葉が、山田裕貴の魂に火をつけました。高校卒業後、親の力を一切頼らずに単身上京し、ワタナベエンターテインメントカレッジに入学。エキストラやオーディション落ちを繰り返しながら泥水をすする日々を耐え抜いた原動力は、「父との約束を果たす」という強い覚悟でした。