吉原の歴史は、徳川幕府が開かれた直後の慶長17年(1612年)、庄司甚右衛門らが幕府に遊郭設置を願い出たことに始まります。当初は日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町付近)に開かれ「元吉原」と呼ばれましたが、明暦の大火(1657年)を経て浅草寺の裏手へと移転し、「新吉原」として幕末まで繁栄を極めました。
幕府が吉原を周囲にお歯黒どぶ(堀)を巡らせた隔離空間とした背景には、風紀の統制と防犯の目的がありました。しかし、外界から閉ざされた治外法権的な空間であったからこそ、吉原内部では武士の身分制度が通用せず、「教養」と「洗練された遊びの作法(粋)」だけが価値を持つ特異なサロン文化が醸成されたのです。
哲学者・九鬼周造が名著『「いき」の構造』で分析したように、江戸の粋とは「異性に対する媚態」「武士道に通じる意気地(気骨)」「世の無常を知る諦め」が絶妙な均衡を保った状態を指します。吉原は、まさにこの三要素が最も先鋭的に磨き上げられた舞台でした。