光秀が最期を迎えたとされる現場は、現在も京都市伏見区小栗栖に「明智藪」として保存されています。周囲は住宅街が広がる一角ですが、現地には竹林が鬱蒼と生い茂り、当時の陰惨な空気を今に伝えています。
当時の戦国社会において、農村には「落ち武者狩り」という過酷な慣習が存在しました。村の境界を侵す敗残兵を武装農民が襲撃し、身ぐるみを剥いで武具や金品を奪い、首級を勝者側に差し出して報奨金を得るという、惣村(農民自治組織)ぐるみの防衛兼臨時収入の手段でした。光秀はその冷酷な構造の犠牲となったのです。
一方、光秀の遺体処理をめぐっては、明智光秀 首塚 場所が京都周辺を中心に複数存在することが知られています。
- 東山区三条通白川橋の首塚:京都三条白川のほとりにある首塚。介錯された首級が密かに運ばれ、この地に埋葬されたと伝えられ、現在も祠が大切に維持されています。
- 亀岡市・谷性寺(桔梗寺)の首塚:光秀の丹波支配の拠点であった亀岡にある寺院。本能寺の変の前に祈願した寺とされ、遺臣が首を持ち帰って供養したと伝わります。
- 粟田口(京都市東山区)の胴塚・晒し首跡:秀吉軍によって回収された首級と胴体は、本能寺や粟田口で槍に掛けられ、数日間にわたって晒された記録が残っています。
初夏の高温多湿な気候下、逃亡中に泥中に埋められた首級は、秀吉軍に掘り出された時点で激しく腐敗が進んでいました。首実検を行った秀吉側も判別に苦慮したとされ、この「遺体の不鮮明さ」が、後の生存説を生み出す土壌となりました。