居酒屋や自宅でよく見かける「醤油皿に山葵を溶いて、そこに蒲鉾を浸す」という食べ方。実はこれこそが、板わさの香りと調和を台無しにしてしまう最大の落とし穴です。板わさ美味しい食べ方の真相を探ると、分子レベルでの香気成分の挙動に行き着きます。
本山葵のツンと抜ける辛味と澄んだ芳香の主成分は、アリルイソチオシアネートと呼ばれる極めて揮発性の高い有機硫黄化合物です。この成分は熱や液体との長時間の接触に弱く、醤油の中に溶かし込んでしまうと、醤油に含まれるアミノ酸や塩分に分子が吸着・コーティングされ、揮発速度が鈍化してしまいます。さらに、醤油全体の風味が刺激で濁り、蒲鉾の淡麗な白身魚の旨味を塩分で塗りつぶしてしまう結果を招きます。
プロが推奨する板わさわさびの付け方は極めて論理的です。まず、切り分けた蒲鉾の背または天面に適量の山葵を「ちょんと載せる」。そして、山葵が付いていない下側(板に接していた座の部分、または断面の端)にのみ、良質な醤油を数滴だけ付ける。この配置で口に含むと、最初に舌へ届くのは醤油の塩角が取れた旨味、続いて蒲鉾を噛み締めた瞬間の白身の甘味、最後に咀嚼する呼気とともに山葵の鮮烈な香気が鼻腔へと真っ直ぐ駆け抜けます。計算された味覚のグラデーションを成立させるために、山葵は「溶かさずダイレクトに載せる」のが唯一無二の正解です。