産業現場の技術者や研究者がフッ酸を最も恐れる理由は、他の強酸(塩酸や硫酸など)とは全く異なる特殊な生体内毒性メカニズムにあります。
塩酸や硫酸は皮膚に触れると強い水素イオン(H+)により即座に激しい痛みと化学熱傷を引き起こすため、人間は反射的に洗い流すことができます。しかし、フッ化水素酸は水溶液中での解離度が低い弱酸であり、分子状(HF)のまま皮膚の脂質バリアを容易に通過して皮下深部組織や骨にまで速やかに浸透(経皮吸収)します。
組織内に浸透したフッ化水素は体内で解離し、遊離したフッ化物イオン(F-)が生体内のカルシウムイオン(Ca2+)やマグネシウムイオン(Mg2+)と猛烈な勢いで結合します。この反応によって不溶性のフッ化カルシウム(CaF2)が形成され、生体内の電解質バランスが一瞬にして崩壊します。
結果として生じるのが「難治性の深部壊死」と「重篤な低カルシウム血症」です。低濃度(数%程度)のフッ酸に触れた場合、受傷直後には痛みも発赤もほとんど現れません。数時間から半日以上経過した後にフッ素イオンが神経組織や骨膜を侵食し始め、耐え難い激痛とともに組織が融解・壊死していきます。さらに体表面積のわずか数%(手のひら1〜2枚分程度)の接触であっても、血中カルシウムが急激に枯渇し、心室細動や心不全を誘発して短時間で死に至るケースが報告されています。
過去には、海外の化学工場で発生したフッ化水素ガスの大規模漏洩事故により周辺住民を含め数千人が受診する事態となった事例や、国内の研究室で保護手袋の選定ミスにより指先からフッ酸が浸透し指の切断を余儀なくされた事例が記録されています。現場作業者の安全を守るためには、一般的な天然ゴム手袋(ラテックス)や薄手のニトリル手袋では不十分であり、ネオプレン、ブチルゴム、バイトン(フッ素ゴム)などの透過抵抗性能を有する耐薬品性保護具の完全装着が不可欠です。