戦国時代から近世にかけて、権力者にとって側室や妾を配することは単なる道楽ではなく、生き残りをかけた極めて実利的な政治戦略であった。
豊臣秀吉は数多くの側室を抱えたことで知られるが、その多くは大名同士の政治的牽制や血縁関係の強化を狙ったものであった。子宝に恵まれなかった秀吉にとって、側室が産む後継者は政権の死活問題そのものだったと言える。
一方、江戸幕府を開いた徳川家康は、より徹底した合理主義でこの制度を運用した。家康は家系の絶滅を防ぐため、多数の側室を抱えて多くの男子をもうけた。家康自身、「若く美しい女性ばかりではなく、子を生んだ実績のある女性や落ち着いた性格の者を側に置くべきだ」という趣旨の記録を残している。家康が打ち立てた強固な後継者育成スキームは、その後の大奥制度の礎となり、250年以上にわたる徳川将軍家の治世を支える基盤となった。