麻生太郎は五輪代表だった?射撃の腕前やToto設立の真相を徹底検証

麻生太郎は五輪代表だった?射撃の腕前やToto設立の真相を徹底検証

麻生太郎は五輪代表だった?射撃の腕前やToto設立の真相を徹底検証の背景について、最新情報を詳しくお届けします。

麻生太郎氏のアスリートとしての原点は、学習院大学政経学部在学時代に遡ります。当時の学習院にはクレー射撃部が存在しなかったため、自ら仲間を集めて同好会を立ち上げ、正式な射撃部へと昇格させました。自著や当時の関係者の手記によると、麻生氏は初代主将として練習環境の確保から銃砲所持許可の取得手続き、遠征費の捻出まで部活動の土台を全て自力で開拓したと記録されています。

学生時代から類まれな集中力と動体視力を発揮した麻生氏は、散弾銃で空中に射出されたクレー標的を撃ち砕く「スキート競技」に専念しました。卒業後は家業の麻生セメント(現・株式会社麻生)で多忙な実業家人生を歩む傍ら、国内外の射撃場で過酷な実弾トレーニングを継続。1970年代の全日本選手権を制覇し、当時の日本新記録(200満点中198点)を叩き出すなど、国内に敵なしの絶対的エースへと成長を遂げました。

そして1976年、カナダで開催されたモントリオールオリンピックのクレー射撃(スキート)日本代表として正式に選出されます。35歳という選手としての円熟期に、国家の威信を背負って五輪の射台に立った事実は、政界入り前の麻生氏が到達した正真正銘の頂点でした。

田中 結衣
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田中 結衣

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。