なぜ東京都本土は、東西約90kmに及ぶ横長のシルエットを描いているのでしょうか。その答えは、1893年(明治26年)4月1日に断行された「三多摩移管(さんたまいかん)」にあります。驚くべきことに、現在の多摩地域(北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡)は、明治初期まで神奈川県の一部でした。
もし三多摩が移管されていなければ、東京の西側境界は現在の杉並区や世田谷区あたりで途切れ、東京は現在の半分以下のコンパクトな円状になっていたはずです。当時の明治政府が強引とも言える越境再編を行った背景には、都市の存亡に関わる2大要因が存在しました。
1. 玉川上水の水源確保と感染症(コレラ)対策
最大の動機は、東京市民の生命線であった「上水道の水源防衛」でした。当時、東京市街地への給水は江戸時代から続く玉川上水に依存していましたが、その水源取水口(羽村取水堰)や流路の大部分は神奈川県に属していました。
明治期、日本国内ではコレラをはじめとする水系感染症が頻発。1886年(明治19年)の大流行時には全国で10万人以上が命を落とす未曾有の危機に陥りました。衛生管理を徹底したい東京府(当時)と、財政難から上水路の防護や清掃に十分な予算を割けない神奈川県との間で深刻な行政摩擦が発生。「100万人を超える首都住民の命を預かる水源地が他県の管轄にあるのは致命的である」という東京側の強硬な主張が通り、水源地を含む三多摩全域が一括して東京へ編入されることになったのです。
2. 自由民権運動の沈静化という政治的思惑
もう一つの裏の理由は、当時の帝国議会と内務省による政治工作でした。三多摩地域は、民権派の重鎮を多数輩出した「自由民権運動の震源地」として知られ、神奈川県議会では反政府勢力が多数派を占めて知事と激しく対立していました。
当時の政府中枢は、神奈川県から火種である三多摩を切り離して東京府に組み込むことで、民権派の影響力を薄め、首都警察(警視庁)の強大な治安維持権力のもとに直轄統制しようと画策しました。住民の激しい反対運動が巻き起こる中、1893年3月に帝国議会で移管法案が可決され、現在の細長い東京都の原型が一夜にして完成したのです。