龍涎香の正体は、巨大な深海ダイバーであるマッコウクジラの消化器官内に発生する結石(ベゾアール)です。マッコウクジラの主食は深海に生息するダイオウイカやタコなどの頭足類ですが、これらの生物の硬い顎板(カラスビ)は消化されずに胃や腸の中に残ります。通常は未消化物として吐き出されますが、極稀に腸管腔を通過する際に分泌液やコレステロールと混ざり合い、層を成すように結石化することがあります。
この結石がクジラの腸壁を刺激しながら数年、数十年をかけて巨大化し、最終的にクジラの排泄に伴って体外へ排出されるか、あるいは寿命を迎えたクジラの死骸が朽ちることで海中へと放出されます。海洋生物学者らの研究によると、マッコウクジラの中でも龍涎香を体内に宿している個体は全体のわずか1%から5%程度に過ぎないと推計されています。
さらに重要なのは、体内から出たばかりの結石は黒く粘り気があり、強烈な糞便臭や生臭さを放つ無価値な塊に過ぎないという点です。比重が海水よりわずかに軽いこの塊は海面に浮上し、太陽の強烈な紫外線、海水に含まれる塩分、激しい波風に晒されながら、数十年から100年以上の歳月をかけて海洋を漂流します。この極めて過酷な自然の熟成プロセスを経て、悪臭成分が完全に抜け落ち、酸化重合によって揮発しにくい重厚で甘い芳香成分へと化学変化を遂げたものだけが、真のアンバーグリスとなるのです。